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1780年に発生した「グレート・ハリケーン (Great Hurricane of 1780) 」は、大西洋を襲ったハリケーン(熱帯低気圧)の中でも、歴史上最悪の被害を出したハリケーンとされている。1780年10月10日から10月16日にかけてこのハリケーンに襲われたカリブ海の小アンティル諸島の島々、マルティニーク島、シント・ユースタティウス島、バルバドス島などは、およそ2万2千人が死亡するという壊滅的な被害を受けた。 また、海上での死者も数千人に上ると見られている。 == 被害 == グレート・ハリケーンが発生したのはアメリカ独立戦争のさなかであった。当時、イギリスは対アメリカ海上封鎖を行い、西インド諸島ではイギリス艦隊とアメリカ側についた国々の艦隊が、島々の支配権や制海権を巡って戦っていた。ハリケーンはちょうど小アンティル諸島周辺を巡り争っていたイギリス艦隊とフランス艦隊を直撃し、双方の艦隊は大嵐に襲われて大きな損傷をこうむり散り散りになった。小アンティル諸島で荒れ狂ったハリケーンは、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの各国艦隊の水兵数千人の命を奪った。 イギリス艦隊の司令官だったジョージ・ロドニー提督は、ハリケーンの後ニューヨークから西インド諸島に戻ったが、バルバドスに残した12隻の戦艦のうち8隻が沈没し、その乗員のほとんどが遭難したことを知った。また、彼の指揮下にあった艦船もほとんどが損傷したことが分かった。 ハリケーン被害を調査するため送られたイギリス軍の偵察隊が報告したところによれば、大嵐は10月10日から12日にかけて、2日以上の間バルバドス周辺海域にとどまり続けたという。バルバドス島にあった木々や建物は、ほぼすべて地上になぎ倒されていた。漁船数十隻も漁に出たまま戻らなかった。死者は4,326人にのぼり、島に住むほぼすべての家族はハリケーンで身内を失った。破壊の具合があまりにすさまじかったため、偵察隊は嵐と地震が同時に襲ったと誤った結論を出したほどだった。 ハリケーンはマルティニーク島で9,000人の死者を出した。またセントルシア島をはじめ、小アンティル諸島の他の島でも多数の死亡者を出した。 シント・ユースタティウス島では4,000人から5,000人が死亡した。ハリケーンはこの後、プエルトリコ島の南西隅をかすめ、北西方向へ移動していった。 ハリケーンは10月16日ごろ、イスパニョーラ島の東部から北部を通過し、10月17日ごろフロリダ半島に接近した。ハリケーンは北米大陸の東沖を進み、チャールストンの沖合いでも強い疾風が起こっていた。いくつかの情報源は、ハリケーンの中心は10月16日から18日にかけて、ハイチ北方の北回帰線で急旋回し、西方へ進むのをやめ北東へ向かったという。他の情報源ではハリケーンは定説以上にフロリダに接近したという。 ロンドンで発行されている船舶と保険の雑誌ロイズ・リストは、12月19日号でこのハリケーンの情報を初めて取り上げ、1781年4月まで追加情報を出し続けたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1780年のグレートハリケーン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Great Hurricane of 1780 」があります。 スポンサード リンク
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